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美術自由空間 アトリエ ここいろこころ自由に発想して、自由に表現してみる、美術教室
基本からでも、好きなことからでも、 オトナも、コドモも、自分の中の宝探し。 |
なんどかお知らせしていますが、
ここいろの日常はFacebookの方にUPしています。
ブログはまたじっくり文章が書きたくなった時に。
今日もここいろの子どもたちのキラキラが溢れています。
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安部さんが仕切りに、
日本という国に生まれたことを誇りに思える教育。
と言っている。
お…
意外と新鮮なことばだな、と思った。
戦後長い年月が経ったから、ようやく公人が言える言葉なのかもと思い、
お。。と思った。
96年ニューヨーク大学に短期留学した時、
その頃私は、日本にあまり目を向けておらず、
むしろ、あまり好きではなく、
海外で学ぶことに意気揚々としていたが、
世界一の大都市に集まった国際色豊かな学生達の中で、
自分の作品を説得力をもって表現することは然ることながら、
友達になった学生達との日常会話の中で
「おまえは何者なのか」
「おまえの生まれた日本という国はどういう国なのか」
ということを、具体的にも雰囲気的にも問われている場面に多々直面し、
それには大きく狼狽えた。
私は自分の言葉で自信を持って話すことができなかった。
というか考えたことがないことに気づかされた。
それまで自分を前進させ、自分を押し上げることに猛進してきたが、
足下の床がふっと抜けたような、というか、
気づいたら床がもともとなかったような、
必死に沈まないように腕力だけで浮き上がろうとしていただけだったような、
そんな自分のそれまでの現実に愕然とした。
他の国の同じ世代の学生達は、自分の国のことをちゃんと語れるのだ。 アメリカとかフランスとか大国はもちろん、どんな小さな国の子も。 日本は他国が賞賛するすばらしい文化を持っていながら、 日本人がその良さをわかっていなかったという…。 その問いかけに答えられなかったことで、 作品のレベルで認められなければという契機にはなったが、 自分の根幹が弱いことは世界に出た時どう足掻いても限界があると痛感した。 それまで、大学での課題作品では完成度の足りない部分は 言葉で補足(言い訳)できていたが、 言い訳ができない状況に初めて裸で投げ出された感覚だった。
内にいるときは外しか見ていなくて、 外に出てはじめて、元いた場所が見えてくる。 旅行じゃ、そこまで気づかなかった。
どんなに自分のいる環境が、好きじゃなくても、気に入らなくても、
それが自分の土台であることは変えられない。
認識して、理解して、自分をひも解かなければ、
自分の表現や、それを他者に表現するすべも導き出せず、
それこそもがき苦しむ。
仕事でそれに直面するとその場のダメージが大きいだろうから、 教育の場でそれを実感できるのが最善かもしれない。
それに気づけたのは、私のそれまでの人生の中で、 とてつもなく大きな気づきの経験になった。
日本で愛国心というと右とかってなってしまうのは、戦争があったからか? 教科書問題にもつながるのかもしれず難しいのかもしれないが、 もう歴史において自国の良かったとこ、悪かったとこ、きちんと知って より良い未来につなげなければと思う。 陰を知って陽を知るというか。
多面的に物事をみたり感じたり考えたり、
価値観が多様化する現代社会、国際社会では必要なのだと思う。
という意味で、 反発心、反抗心も含めて、自分の国の文化を知ること、 考えるきっかけが教育の場であるのはいいなと思う。 自分の学生の頃に比べたら、日本人も日本文化の良さを再認識し 日本文化に誇りを持ちはじめたように思う。
そして、多様化する世界に於いても、多様性に振り回されず、
軸足は自分の中に保てるように。
その為に、自分のことも日々表現して評価を受けて、喜んだり反省したりまた学んだり。
試行錯誤を繰り返す。
失敗しても折られても、また力強く立ち上がれるように、
その軸足をしっかり踏ん張れるためにも、
根っこをしっかり張るためにも、
「足もと」が大事だった。
それが人間力を育てることになる。 ひとりひとりの子供も大人も自分の軸足で立てる力を育てること。
その日の国会中継は教育改革の予算審議だったから、
子供たちに文化・芸術に触れさせる体験授業と、あと教員育成に着眼していた。
本当に小中学校の美術・音楽の授業は大事だと思っている。
答の決まっていない分野。
個性や価値観の多様性が許されるはずの教科。
その子それぞれが表現や鑑賞を自由に楽しめる教科。
学校の美術の先生は成績をつけなきゃいけないのが、本当に難しいと思う。
自分がなったとしたら、本当に苦悩すると思う。
どうしても技術的な上手い下手は出てきてしまうが、
技術だけじゃなく知識を深める生徒がいてもそれは鑑賞者として
芸術には大事な立場だ。
点数がつかなければ、勉強しない子もいるだろうし、
たしかに、芸術は表現と学問の折り合いが難しい。
芸術は「教える」のではなく、その感覚を「育てる」のだ
と、私は思っている。
技術はあとから必ずついてくる。
教育改革についての国会衆議院予算委員会、 元バレリーナの議員の質疑、 時間配分や質疑の内容のバランスがなかなか良かった。 「心で学んだことは忘れない」という言葉に同感。 そしてまずは「感じられる心」も育てねば。 芸術教育はただの余暇を埋める趣味や技巧的なことじゃなく、 「想像して創造する」という人間形成や社会形成の根幹になる大事な教育だということを どれだけの議員がわかっているか。 自身もリベンジとおっしゃる安倍さんに、多いに期待。 写真は96年NY、世界貿易センタービル屋上からアップタウンを望む この5年後、このビルが崩壊した映像を見たときは、 この時の風景が足下から崩れ落ちる錯覚に陥った。 高見から望むより、地に足をつけて生きていきたい